2022年 10月
葬儀プラン:1日の家族葬
葬儀場所 :はるか会館
会葬者人数:14名
大正8年に産まれて103年、天寿を全うされた故人様。
故人様のご主人は今治出身
実家はタンス屋さん
ご主人様は末っ子で家業を継ぐことはなかったけれど
営業として呉に来ていた時に故人様と出会う
故人様はご主人様と子ども3人の
5人家族で暮らしていた
昭和初期
ご主人様は戦争に駆り出され、その後シベリアに抑留
昭和20年の夏
呉市の仁方という地域に住んでいた
故人様と子ども様方
戦争をふりかえり語り始めた。
あの日西の方角を見ると
黒い「キノコ雲」が上がっていた。
生活は苦しくなり親戚を頼りに呉市仁方から歩いて
東広島市まで幼子3人を連れて歩く
それから東広島のご実家で生活。
五右衛門風呂を使わせてもらったり
野菜を分けてもらったり
自分で生きていけるようにと
この時「自分に負けない心」を故人様から学んだ
そして、終戦を迎え
覚えているのは、貧しくて大変だった日々
その頃、食べ物に困り家に訪ねてくる人がたくさん居た。
いつものように実家に居るとき
ボロボロの服を着た、ガリガリの男性が来たので
追い払うかのようにして、大騒ぎをしたところ
それがお父さんだったそうです
それからの生活も決して裕福とは言えませんが
故人様は介護のお仕事をされていたそうです
親切丁寧でよく指名が入って
ご主人様の認知が始まってからも
その仕事は続けていた。
とにかく「働くことの大切さ」を母が教えてくれた
子ども様方は全員家から離れたところで生活
24年前に、ご主人様は他界されてから
故人様は一人で暮らしていた
喪主様に昼夜問わず電話連絡が増えたり
急に音信不通になることもしばしば。
固定電話の線を引き抜いていたことも。
どんどん変わりゆく故人様を見るのが辛かったと喪主様は語る
体調を心配していても病院には行ってくれない
ケガをした時にやっとの思いで病院へ連れていくことができた
その時、身体を看てもらいお医者様から
「あと3年早ければ症状を緩和できたのに」と、、、
喪主様の生活している街へ連れて行こうとしたら
慣れない土地へ行くと認知が悪化すると言われ断念
昨年の3月3日に施設へ入所。
102歳まで自宅で生活をされていたことを聞かされ驚きました。
その頃、新型コロナウイルスで世の中は大変になっていました
「他県からの訪問は控えてほしい」と言われ
故人様の面会に来れなかったので、施設職員の方へお願いをして
喪主様から電話をかけさせてもらっていた
喪主様の声を聴くと故人様は元気になり
この半年間毎週ハガキを送り
職員の方が代読をし、それらは部屋に張られていたそうです
「相手を思いやること」とよく口にされてたことを
思い出されたそうです。
令和4年夏
施設の方の計らいで喪主様と妹様2人で
故人様に会いに行かれたそうです。
限られた時間しか無かったのですが
大声で「よう来たのぉーバンザーイ!」
この万歳の意味は何だったのか?
今、思い出すとそれぞれの子ども様方の記憶が
それぞれの思い出と変わり
教訓や家訓になっている
最期にそれぞれが故人様と並んで写真を撮影し
その裏にはそれぞれの思いが手紙として隠され
大事に自宅で保管して頂くために額に納めて
お渡しいたしました。
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スタッフからの一言
103年の生涯を聞いていると
大正、昭和、平成、令和と本当に激動の中生き抜かれたこと
そして、時代時代の背景を聞いてると
本当にそんな時代がこの日本に現実に起きていたのかと
不思議な感じでした。
遺族の方々とふりかえりながら、私自身も有難さを故人様が
教えてくれているのだと感じることが出来ました。